日だまり | ||||||||
「ひまわり」1998年11月第51号より | ||||||||
冬に入ったある日の午後、静寂な空間、そこの溢れんばかりの太陽の日が部屋の奥まで差し込んでいる。私は日だまりの温もりがあまりにも心地よいために、幸せを感じ、しばし、ぼーっとする。そのばの時がすべて止まり、この瞬間を幸せというものだと考えていた。欲を言えば、今、この時、自分でコーヒーでも自由に入れて飲むことができれば、どんなに幸せであろうか…。などという想いが脳裏をかすめた。次の瞬間、一人取り残された寂しさがおそってきた。なぜ… それは、語りかける相手がいない寂しさであることに気づかされた。この心地よい気持ち、誰かに伝えたい。一言「この瞬間、いいよね…。」と。
場面を変えれば(縁側の日だまりの中、老夫婦がお茶を飲みながら「婆さん、えー天気じゃのー」「本当に、えー天気で、山では紅葉も色づいて、綺麗でなかろうかね」そんな、のどかな会話が交わされている)などと、想像していた。 私は勝手なのか…。日だまりで幸せを感じたはずなのに、気づくと寂しさを感じることにもなっていた。そばに誰でもよいから人がいればよいというものでもないようにも考える。そばにいつも人がいることにより、不自由なことも多い。そばに人がいないことによる不自由、不便もあるが…。今、私はそばに人がいないときほど、自由でよいなあーと考えることが結構多いようだ。これって、わがままなのかしら…。皆様、教えて。 |
ちいちゃんの昔話