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冬に入ったある日の午後

冬に入ったある日の午後、静寂な空間、そこの溢れんばかりの太陽の日が部屋の奥まで差し込んでいる。
私は日だまりの温もりがあまりにも心地よいために、幸せを感じ、しばし、ぼーっとする。
その場の時がすべて止まり、この瞬間を幸せというものだと考えていた。
欲を言えば、今、この時、自分でコーヒーでも自由に入れて飲むことができれば、どんなに幸せであろうか…。などという想いが脳裏をかすめた。
次の瞬間、一人取り残された寂しさがおそってきた。
なぜ… それは、語りかける相手がいない寂しさであることに気づかされた。
この心地よい気持ち、誰かに伝えたい。一言「この瞬間、いいよね…。」と。

場面を変えれば(縁側の日だまりの中、老夫婦がお茶を飲みながら「婆さん、えー天気じゃのー」「本当に、えー天気で、山では紅葉も色づいて、綺麗でなかろうかね」そんな、のどかな会話が交わされている)などと、想像していた。

私は勝手なのか…。日だまりで幸せを感じたはずなのに、気づくと寂しさを感じることにもなっていた。
そばに誰でもよいから人がいればよい、というものでもないようにも考える。
そばにいつも人がいることにより、不自由なことも多い。そばに人がいないことによる不自由、不便もあるが…。
今、私はそばに人がいないときほど、自由でよいなあーと考えることが結構多いようだ。

これって、わがままなのかしら…。皆様、教えて。

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小柴 千鶴

えがお株式会社代表取締役、NPO法人夢ハウス理事長。 27歳のとき進行性筋ジストロフィー発症との診断を受ける。 さまざまな困難を乗り越えながら「ITであれば障害者でも仕事ができる」と思いたち「小規模作業所夢ハウス」をスタート。

  1. 介護とは

  2. お正月の準備

  3. 最大限の努力

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